大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和56年(オ)25号 判決

上告人

医療法人十全会精神科京都双岡病院

右代表者理事

赤木孝

上告人

医療法人十全会

右代表者理事

赤木静江

上告人

池田輝彦

上告人

酒井泰一

右四名訴訟代理人

前堀政幸

前堀克彦

村田敏行

被上告人

髙木隆郎

被上告人

榎本貴志雄

被上告人

奥村小夜子

被上告人

木田祐一

被上告人

須川信道

右五名訴訟代理人

﨑間昌一郎

坪野米男

堀和幸

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人前堀政幸、同前堀克彦、同村田敏行の上告理由について

原審が適法に確定した事実関係のもとにおいては、上告人池田に対する本件告発が虚偽の事実を申告したものとはいえず、被上告人らが新聞記者に公表した上告人池田及び訴外国吉政一についての本件告発事実については、重要な部分につき真実性の証明があつたとし、したがつて、右告発及び公表がいずれも不法行為とならないとした原審の判断は、正当として是認することができ、また、被上告人らが、上告人酒井に対する本件告発をし、かつ、右告発事実を新聞記者に公表するに当たり、訴外水口(旧姓松田)記美代の主治医として同訴外人に対し当該告発にかかる行為をした者が上告人酒井であると信じたことには、相当な理由があるといえるから、被上告人らには故意・過失がなく、したがつて右告発及び公表はいずれも不法行為を構成しないとした原審の判断も、正当として是認するに足りる。所論は、独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎない。原判決の所論に違法はなく、論旨はいずれも採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(中村治朗 団藤重光 藤﨑萬里 谷口正孝 和田誠一)

上告代理人前堀政幸、同前堀克彦、同村田敏行の上告理由

第一点

原判決は、本件請求のうち名誉毀損を原因とする請求につき、被上告人らが新聞記者らに告知した事実の相当部分が真実に反する旨の事実認定をなしながら、その事実の相違について刑事訴訟法上の「公訴事実の同一性」があるか否かを論じ、右公訴事実の同一性の範囲内の事実の相違であれば事実が相違していても「事実の真実性の証明があつた」こととなるとの判断をなし、もつて被上告人らが新聞記者らに告知した行為も、相当部分真実には反するけれども、その相違は公訴事実の同一性の範囲内の相違であるから事実の証明があつたことになつて違法性を欠き、不法行為は成立しない旨の判示をなしたが、右判示は、名誉毀損の場合の不法行為の法令の解釈適用(特に、いかなる場合に真実性の証明があつたと解しうるかという法理)を誤り、かつ、最高裁判所昭和四一年六月二三日判決(民集二〇巻五号一一一八頁)並びに最高裁判所昭和三一年七月一〇日判決(民集一〇巻八号一〇五九頁)の判旨に違背するか、又は同判旨を誤解するものであつて判決に影響を及ぼすことが明らかである。よつて原判決はすみやかに破棄せらるべきである。

一、原判決は、原判決のいう「本件告発事実」のうち、患者松田記美代の主治医が、上告人酒井でなかつたとの点のみは公訴事実の同一性の範囲を越える事実の相違があるので事実についての真実性の証明がなかつたことになるとしながら、別途の理論構成で上告人酒井の請求を斥けているが、その余の告発事実については、全く右と同じ理論構成で告発事実について事実の真実性の証明があつたとして上告人ら(第一審原告ら)の請求を斥けているのである。

そこで、右松田記美代の主治医の点については第三点において論述することとし、ここではその余の点についてのみ論述する。

二、まず原判決の前示理論構成を概観すると原判決は、次の如く理論を展開している。

すなわち、原判決は

① まず本件告発事実そのものの内容を認定し、

② 次いで告発事実と真実との相違点を認定し、

③ 更に「事実の相違と不当告発」と題して

「他人に刑罰又は懲戒処分を受けさせる目的で虚偽の事実につき不当な告発をした場合は、それが告発人の故意過失によりなされたと認められる限り不法行為による損害賠償義務が生ずる。そして、「虚偽の事実」とは客観的事実に反することを意味するが(最決昭三三・七・三一刑集一二巻一二号二八〇五頁)、どの程度の相違が重要なものとして「真実に反する」ことになるかについては次のとおり考える。

およそ、私人が他人に対し犯罪の嫌疑をかけ、これを捜査機関に告発する場合には、十分に注意深く、犯人の同一性その他諸般の情況を考慮して事実関係を判断し、犯罪の嫌疑をかけるに相当な客観的根拠を確認した上でなすべきである。しかしながら、他面、私人は専門の捜査機関ではないのであるから、告発事実全体が細部に至るまで悉く客観的真実に一致することを求めるのは苛酷に過ぎ、犯罪の申告による捜査協力を得ることが不可能となる虞れが多い。

しかも、専門の捜査官である検察官が捜査を遂げて公訴を提起した訴因についても、後に公訴事実の同一性を害しない限度で訴因の変更が許されているのであるから(刑訴法三一二条一項)、まして捜査の専門家でない私人の告発については告発事実の大綱が客観的事実に合致すれば、その細部が真実とくい違つていてもこれが事実全体の性質を変更するようなものでない限り、適法な告発として許されてよいし、真実と一致しない部分が申告事件の情況を誇張するにすぎないときは誣告ないし不当告発による不法行為は成立しないと考える(大判大一三・七・二九刑集三巻七二一頁参照)。また、被告発者に全く別の犯罪の原因となる事実があつても、告発事実が虚偽であれば、誣告ないし不当告発による不法行為の成立に消長をきたさないといえるが(大判昭一二・二・二七刑集一六巻一四〇頁参照)、少なくとも公訴事実の同一性がある限り告発事実と異なる犯罪が認められる場合でも右告発には違法性がないというべきである。

と論じ、ここで「公訴事実の同一性」が、真実と相違する事実の告発の違法性の有無に関する判断のメルクマールになる旨の解釈論を展開し、

④ 更に次いで、本件各告発事実と真実の事実との相違点は、前記松田記美代の主治医の点を除きすべて「公訴事実の同一性」の範囲内にあるとの判断を加え(ここで告発行為の違法性を否定し)

⑤ これらの判断の上にたつて、告発事実を新聞記者に告知したことによる名誉毀損の検討に入り、公共性等の検討をなした上で、事実の真実性の証明につき、

「ここにいう真実の証明は、摘示された事実のうち重要でない枝葉の点に関して多少真実と合致しない点があつても、その重要な部分について真実であることが証明されれば足りると解されるところ、特定の事実を告発したとの事実を新聞記者に公表した場合には、右告発が、誣告罪ないし不当告発として不法行為を成立させるに足る違法な虚偽の事実の申告でないことが証明されれば、右真実性の証明があつたものというべきである。

と論じているのである。

従つて原判決の解釈・論理によれば、結局のところ、「特定の事実を告発したとの事実を新聞記者に公表した場合には」その摘示した事実が真実と相違していたとしても、その相違が公訴事実の同一性の範囲内の相違であれば、この相違は重要な部分ではなくこれを無視して真実性の証明があつたというべきであると解釈されていることとなる。

三、しかし、右解釈は全く名誉毀損における真実性の証明の意義について法令の解釈を誤つた謬論、といわねばならない。

すなわち、判例(前掲最高裁昭和四一年六月二三日判決等)のいう真実性の証明の問題は、まず或る事実の摘示によつて或る者の名誉が毀損されたことを前提とし、その名誉を毀損した事実が真実であり、かつ専ら公益を図る目的で摘示したものであるときは違法性を欠くとするのである。

そしてここで大事なことは、この事実の摘示という場合の「事実」も、事実が真実と一致するという場合の「事実」も共に名誉を毀損する事実(いい換えれば、名誉を毀損するという観点で意味づけられた事実)であることである。

従つて、ここでは、どのような事実の摘示が名誉を毀損するのか、という点がまず判断され、その名誉を毀損した事実が真実と一致することが必要なのである。(ここで必要なのは公訴事実の同一性などという観点ではないのである。)そして事実についての或る表現か名誉を毀損したといえるか否かは、専門家が極めて注意深く理解したような場合を基準に判断するのではなく、「いやしくも一般読者の普通の注意と読み方を基準として解釈した意味内容に従う場合、その記事が事実に反し名誉を毀損するものと認められる以上これをもつて名誉毀損の記事と目すべきは当然である」(前掲最高裁昭和三一年七月一〇日判決)といわれるように、一般人を基準として、一般人の注意と読み方により、その表現が名誉を毀損したといえるか否かを判断すべきである。

そして、このような一般人を基準として何が名誉を毀損する表現かという観点でみるならば、例えば、医師の医療過誤と、医師が報復目的でなす傷害とは、およそ名誉の毀損される程度に著じるしい差異があることが明白であり、また例えば、故意による傷害と業務上過失傷害(交通事故を装つた傷害と不注意による交通事故の傷害)、放火と失火、窃盗と賍物罪、などの各間にも名誉の侵害状況に明白な差異があるのである。(我々法曹に関係していえば、例えば、過失で上訴期間を徒過した場合と依頼者を困らせるため故意に上訴期間を徒過させた場合とでは、同じく弁護士法上の懲戒処分の対象となる事実であつても、不名誉さの程度に重大な差異があることは明白である。)

ところが、公訴事実の同一性なる概念は、右に言うような名誉感情とか名誉侵害とは無関係に、訴因の変更が許容される範囲などを定めるについての全く刑事訴訟手続適正化の面のみから、構成措定された概念である。

従つて、もともと、このような法概念そのものが法概念として名誉毀損の場合の事実の重要性の判断基準などにはなり得ないものである。(なお捜査の端緒としての告発事実の真実性の証明の程度については後述し、ここでは別論とする。)

しかも、原判決の判示に従つて、仮りに公訴事実の同一性を判断基準にするなら、種々の不都合が生じることは明白である。例えば真実は、不注意で失火した者を、うらみで放火した者として新聞記者に発表しても公訴事実の同一性の範囲内で真実の証明があつたことになるし、単なる犯行の見張りにすぎない者(従犯)を強盗の主犯といつても、公訴事実の同一性の範囲内で真実の証明があつたこととなつてしまうのである。しかしかかる法令解釈の結果が不都合であることは多言を要しないのである。

四、そこで本件に即して検討を加えると、本件の告発事実及び新聞記者への告知事実が上告人らの名誉を最も毀損している点は、(第一審において昭和五二年四月三〇日附原告ら準備書面において詳述した如く)医師、或いは病院にとつて、医療行為として行つたことを「医療行為ではない、報復行為である」「医療としてではなく、腹を立てて報復者としてやつたのだ」と非難、宣伝されたことである。繰り返していうが、本件告発も、新聞記者への告知も、上告人らの行為を、医療過誤として非難、宣伝したのではなく、故意犯として、医者が病患者に対し報復行為、懲戒行為を行つたと公表宣伝したところに最大の問題、名誉の毀損があるのである。

本件の根本的な問題はこの点にあり、医師や病院にとつては、原判決が判示する如く、医療過誤(刑事的にいえば、業務上過失傷害)も、報復目的の暴行傷害もともに刑事訴訟法上公訴事実の同一性があるからその範囲内で同じ事実であると言つてすまされる問題ではないのである。

しかも、原判決の事実認定(その事実認定は、例えば東伸子を第一審原告池田と取違えた事実の誤認――原判決四六丁裏九行目――など、かなり誤りが多く到底承服し難いがそのことを別論としても)によつても、本件告発事実、及び新聞記者に告知された事実は、いずれも故意犯としての犯罪行為であり、上告人池田に関しては「右前川が食事の差し入れについて右看護人某に文句をいつたため、同人の右態度に対し懲戒を加えようと企て」との事実摘示が、また上告人酒井については「入院患者の食事作業の手数を省き、右病院に不当な収益を得させようと考え」との事実摘示が、また国吉医師の行為に関しては「右暴言に立腹し、報復せんとし、さらに見せしめとして懲戒を加えようと企て」との事実摘示が、それぞれなされており、明らかに右各行為が非医療行為として、(しかも、各行為者の主観的意図においてさえ医療行為としてではなく非医療行為として)なされたことが指摘されているのである。そしてこれが本件の名誉毀損事実の最も特徴的なポイントなのである。(ベット拘束があつたか、なかつたかなどという問題は多少の日時の点を除き、はじめから争点でも何でもない、争いのない事実であつた。問題点は正にそのベット拘束などが、医療行為として行われたのか、或いは報復行為として行われたのかという点であつたのである。)

そして原判決の事実認定によつても「公訴事実の同一性の範囲内の相違だから無視できる」ということ以外には、右の如き被上告人が公表した「原告医療法人の医師酒井、池田、国吉らがした行為が非医療行政である」との告発事実乃至新聞記者への告知事実の真実性の認定はなされていないのである。むしろ逆に原告医療法人の病院においては、同医師らを含む原告医療法人の医師が安易に患者にベット拘束を用いているとの推認をなし、その推認のもとにそれを非難する判示としてではあるが、

「以上の各事実及び前掲(一)の各証拠を考え併せると、第一審原告双岡病院、同十全会経営の東山高原サナトリウムなどいわゆる十全会系病院ではべット拘束を比較的安易に利用し、前示(一)2のベット拘束の例外性とその許容される要件を厳格に考えず、保護室が不足している場合や医師、看護人などの人手不足等人的物的施設の不備を補うため、扱い難い患者につき自傷他害の虞れがあるものとたやすくきめつけ、むしろ他の治療、保護措置の簡易な代替手段として安直にベット拘束を用いていたことが推認できる。しかしながら、前示のように精神医学は精神病患者に対する偏見、弊風と苛酷な事態を除くため一歩一歩前進してきたのであり、精神病という、言語に絶した苦患を慈悲と人道の心を基礎として拘束から開放へとその療法を進展させてきたものである。

現に、当審証人東昂の証言によると第一審原告十全会系のいわゆる三病院、即ち、第一審原告双岡病院、東山高原サナトリウム、ピネル病院でも、開放療法ないし開放管理を標榜して発足したものであり、とくにピネル病院は前示解放の先駆者ピネルの名を冠しているくらいである。

このように精神医学一般において、本件の昭和四四、五年当時、既に開放療法や開放管理が一般的に承認され、常識化していたものと認められるのであつて、そのような状況の下において開放の美名に隠れて十分な保護室を設置しないまま、身体を直接縛りつけるベット拘束を容易に利用したのでは、むしろ古い苛酷な拘束への逆戻りであり安上りの身体的拘束にほかならず、開放の美名はその根底から瓦解し、いたずらに羊頭狗肉をかかげることになるのみであつて、入院患者の行動制限を厳格に規定する前示の精神衛生法三八条に照らしてもこのようなベット拘束の乱用を是認することはできない。」

と説示しているところからすれば、医療上の考え方として原告医療法人らの医師が、原判決が要求するような厳格な要件の下にではなくして、ベット拘束を用いていたこと、いい換えれば原判決が判示した「ベット拘束の要件」と原告医療法人の病院の医師がベット拘束を用いた際の「ベット拘束の要件」の存否についての判断の相違は、医療上の見解の相違の範疇に属せることであることを原判決が自ら肯認していることが明白である。念のためその象徴的論拠たる事実として、原判決が、被上告人らが告発事実として摘示しておる事実に傷害・不法監禁または傷害致死などの罪名を適用しておることが真実と相違していることを肯定しておる事実を挙示することができる。

従つて原判決は、その事実認定としては、上告人池田ら上告人医療法人らの医師が、主観的には医療行為であると信じて行つた医療行為(ベット拘束など)を、原判決判示の見地から客観的には医療上の要件の存否についての判断を誤つたものであると認定したとは言え、やはり医師池田らのした行為を医療行為の範疇に属しておるものとして捉えておることに変りがないことはまことに明らかであり、その意味で原判決自らが、右医師等がした行為を、被上告人らが右医師らの患者に対する報復者又は懲戒者としてした、故意の非医療行為又は加害行為であると決めつけている本件告発事実、並にこれを新聞記者らに告知した告知事実から区別し、後者が真実に反すると認定しておることも明らかである。

それにも拘らず、原判決は自ら判示した右事実認定の意味を自ら正解しなかつたのみでなく、刑事訴訟法における「公訴事実の同一性」についての法理の適用の場を取り違え、一旦は認知した医療行為と非医療行為との区別の意味を「公訴事実の同一性」の法理によつて混同しておることによつて壊滅・解消せしめ、因て、折角一旦は真実に反すると認定した本件告訴事実及び新聞記者への告知事実についてその「真実性の証明があつたもの」としておるのである。

ここでの原判決の判示はまるでことばのごまかしであるか、さもなければそれがことばのごまかしであることに自ら気づいていたのである。

五、また原判決は本件告発事実の真実性の証明の問題でも、新聞記者に告発事実を告知し発表するという名誉毀損の場合の告知事実の真実性の証明の問題でも、共に「公訴事実の同一性」の概念又は法理を用いて論じているが、このように両問題の真実性の証明の問題(特に、真実性が証明されなくとも足る事実は何かという問題)を同一に論じているのも、法令の解釈適用の誤りといわざるを得ない。

なぜなら、右両問題においては、行為の目的も、行為の相手方も、その影響も、全く異別の問題点があるからである。すなわち、告発は本来捜査の端緒となる行為であつて、当然に捜査官の捜査、判断(最終的には法曹としての高度の判断能力を有する検察官の判断)をうけることが予定されており、しかも告発人が発表しない限り、特定人のみにしか知り得ないことであり、その告発が仮に誤つていても、誤つて告発された者に対する影響も不当な捜査を受ける苦痛という限定されたものであるのに対し、新聞記者に対する告発事実の発表告知は、それ自体がそれにもとづいて直ちにそれが活字となつて新聞紙上に掲載されることを希求する行為であつて、相手方は一般読者であるから、そのような一般読者に検察官の如き高度な法的判断能力を期待し得べくもないのであり、しかもその影響たるや一旦新聞紙上に報道されると極めて広範囲に知られ毀損された名誉を回復するのが著しく困難になるからである。

とりわけ、新聞記者を含む一般人は、公訴事実の同一性などという概念または法理とその適用の場を全く知らないし、特に一般人においては、医療過誤と故意に出でた医療行為に非ざる報復行為との間に存在する明白な差異・相違について判断できるはずがないのであるから、これと検察官の法的な判断能力とを混同・同視して同じ基準で事実の重要性を判定すること自体が法理を誤つたものである。

第二点

原判決は、本件告発事実の相当の部分が真実に反している旨の事実認定をしながら、その事実と真実との相違は、「公訴事実の同一性の範囲内」で重要でない事実についての真実との相違にすぎないとし、それ故そのような真実との相違は「真実性の証明」があるとの認定に影響しないとの解釈を判示したが、このように「真実の証明」の問題に「公訴事実の同一性」なる判断基準を用いることは明白にこの問題に関する法令の解釈適用を誤つておるのである。そして原判決は、右誤りの結果、上告人らの請求を棄却したものであるから、右誤りが判決に影響を及ぼすことは明白である。仍て原判決は破棄せらるべきである。

一、本件告発事実の真実性の証明の問題と、本件名誉毀損事実の真実性の証明の問題とが別途に考察されるべきことは、第一点において詳述したところである。

そこで、ここでは右第一点での論述を前提として、本件告発事実の真実性の証明の問題としては、どのような事実が重要な事実として真実と一致しなければならないかについて考察する。

二、告発事実の真実性の証明について原判決がその一致が必要だと判示する重要事実とは一体如何なる事実であるのかについては、誤つた事実について告発された者がその誤つて受けた嫌疑をはらす必要性の程度を基準として事実の重要性を判断すべきである。

たとえば、その者の行為たる事実が業務上過失致死罪に該る事実としてでは真実な事実であるその行為者を殺人罪で告発するのは、たとえ、公訴事実の同一性が肯定せられしたがつて訴因の変更が法律上可能であつても、やはり不当違法であるといわざるを得ない。なぜなら、業務上過失致死事実に対する科刑なら甘んじて刑に服するつもりの者であつても、殺人犯人として告発されればそのような嫌疑をはらすためには必死の防禦をなさざるを得ないことになる程度の高度の抵抗の必要性が認められるからである。

視点を変えて言えば、殺人罪により告発された者について殺人犯人として嫌疑をうけるのが止むを得ないとする事情があつた場合は、告発者が事実を誤認したことに過失がないということになつて不法行為責任を免れるのであつて、このように不法行為の責任を免れるのは、真実の事実と問題となつている事実との間の相違(差異)が重要であるから、それがもともと真実でなくともそれを無視することができるという法理によつてではないことを知るべきである。

従つて告発事実の証明につき、若しも類比的に刑事訴訟法の概念または法理を用いるとするなら、公訴事実の同一性のそれではなく、被疑者(被告発者)の実質的防禦の観点が加味されておる概念であり、法理である訴因事実の同一性の範囲に止まるべきである。

三、既に上告理由第一点で述べた如く、原判決の事実認定によれば、(イ)一方の告発事実は、報復者としての報復行為(故意犯)であり、(ロ)他方の上告人医療法人の医師池田、酒井、国吉らがかかわつた出来事は医療過誤としての過失ある医療行為(過失犯)であることが明白であるから、本件の場合訴因事実としては相異なり、重要な事実において相違しておるから告発事実は虚偽であつて告発事実につき事実の真実性の証明があつたとは認められないのである。

そして、それ故に、延いては、新聞記者に対する告発事実の告知公表によつて上告人らの信用または名誉を毀損した事実についても事実の真実性の証明があつたとは認められないのである。

よつて被上告人らが告発した本件告発事実、並に被上告人らが新聞記者に対し告発事実を告知し公表した名誉又は信用毀損の事実が虚偽であつて、被上告人らがした告発行為も名誉(信用)毀損行為もともに違法であると言わざるを得ないのである。

このことを否定した原判決が法令の解釈適用を誤つており、その誤が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

仍て原判決は破棄せらるべきである。

第三点

原判決は、上告人酒井が患者松田記美代の主治医ではなかつた事実を認定し、かつこの点に関する告発事実も、新聞記者に対する告知事実も、主要な事実の誤りであること、被上告人らがした告発又は告知は違法である旨認定しながら、少くとも第一審被告らにおいてこれを真実と信ずるにつき確実な資料、根拠に照らしてみて相当の理由があり、その過失が認められない旨判示して上告人酒井らの請求を棄却したが、右判断は、どの程度の資料、根拠があれば「誤信するにつき相当の理由がある」といえるかという点に関する法理の解釈適用を誤つた違法があり、この誤が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決は破棄を免れない。

一、原判決は、「第一審原告酒井を主治医とした点も、真実ではなかつたが、少くとも、第一審被告らにおいてこれを真実と信ずるにつき、確実な資料・根拠に照らしてみて相当の理由があり、その過失が認められないことは、前示第四、三、(二)、1において説示したとおりである。」と判示している。そこで右の「前示第四の三の(二)の1」を検討すると、原判決の判断は次のとおりの論理過程を経たものであると理解される。

すなわち、被上告人ら(第一審被告ら)が上告人酒井を松田の主治医と判断したのは、松田から酒井が主治医であると伝えられたことのみが根拠であること。(右以外に被上告人らが直接何らかの事実を確認したとの認定はどこにもない、――なお原判決には、酒井が新聞記者らに「私の治療は正しい」と語つたことが認定されているが、これは告発行為、新聞記者への発表行為があつた後の出来事であるので、この事実が被告発人の確定や新聞記者への発表の正否・当否を判断する資料となり得た筈はない。)

従つて被上告人らは、精神病患者であつた松田の供述を、何らの確認(裏づけ確認)をとることなく信頼したことになる。しかも原判決は、そのような状況下で被上告人らが松田を信頼したことが相当であると判断しているのである。(以下述べるとおりこの判断こそ誤なのである。)

次に、それでは松田が何故酒井を主治医と誤認したのかという点についての原判決の判示を整理すると次のとおりになる。

①酒井がかつて京都府々立医科大学附属病院で昭和四一年以来、松田の診療に当つていたこと。

② 本件で認められている第一次入院(昭和四四年九月八日から同月一二日まで)の際、酒井が入院の世話をし、特に例外的処置として主治医になつたこと。

③ 本件で明らかになつておる第二次入院(昭和四四年九月二七日より)の際、家族の依頼で酒井が同行し入院の世話をしたこと。

④ 酒井が、主治医東伸子医師の依頼で松田の脳波検査の結果の検討をしたこと。

⑤ 松田の家族の松田の病状についての相談にのつたことがあること。

⑥ 病院内で松田本人と、酒井がたまたま出合い挨拶をしたことがあること(原判決一八頁)。

この六点で全部である。これ以外には全く根拠や資料はないのである。

二、そこでまず、松田記美代が酒井を主治医と誤認した根拠について検討すると、前記六点の理由のうち、前記④の脳波検査の結果の検討をしたことという事実は、医師間の出来事であつて、患者や家族と接触した出来事ではない(原判決の認定は、酒井本人の陳述によるものと思われる)から、少くとも、本件告発時点においては松田記美代や被上告人らが知らなかつた事実であり、当時の判断の根拠とはなつていなかつた事実と認められるからこれを除外すると、結局のところ、問題の入院及び入院中のことに関しては、入院の際世話をしたことと、病院の中で出会い挨拶したことと、家族の相談にのつたことがあるとの事実だけが原判決が言う誤認の根拠となつているのである。

しかし、これは余りにも貧弱な根拠である。

松田記美代は、この時、昭和四四年九月二七日から翌昭和四五年八月三日まで約一年間に及んで入院しているのであり、その間わずか数回しか出合つていない酒井医師(しかもその医師は何らの処理をしていない)を主治医と誤解する筈はないからである。

原判決は積極的に認定していないけれども、第一審証人水口記美代(松田記美代のこと)の証言によれば、東伸子医師はほぼ毎日病室へ顔を出し患者である松田と会話している(証人水口記美子の調書四六丁うら)のに対し、酒井医師は、病室には来ず、廊下で二、三回顔を合せた程度(同調書四七丁)というのであるから、常識的にいえば東医師を主治医と判断するのが当然であつて、約一年間の入院中に二、三度廊下で出会つたにすぎない酒井医師を右程度の根拠で主治医と推認できたというのは、余りに非常識なことである。

どうして、このような非常識な水口記美代の判断を確実な資料、根拠といえるのであろうか。「否」である。

それ故、原判決が被上告人らの行為の違法性の有無の判断をなすにつき、この程度の乏しい資料によつて「信ずるにつき相当の理由がある」という法理を適用したのは、明らかに法令の解釈・適用の誤りであるといわねばならない。

三、また右の如き松田(水口)の話のみを根拠に、上告人酒井を主治医と判断したという被上告人らの判断も余りにお粗末と評さねばならない判断であつて、この程度の根拠に「信ずるにつき相当な理由がある」とは言えない。

原判決が認定している松田(水口)の経験だけが主たる根拠だと言うのでは、到底上告人酒井を主治医と推認できないことは既に論じたが、松田自身の証言(第一審)によれば、松田は被上告人榎本や被上告人高木(共に医者である)に対し、酒井は抜糸の時を除けば病室へ来ていないこと、女性病棟の主治医は東医師であると他の患者から聞いたこと、を話したという(第一審水口記美代証言調書、四八丁〜四九丁)のであるから、被上告人らが松田から原審での同人の証言の程度にまで詳しく事情を聞けば、東伸子医師が毎日病室へ出入していること、松田は他の患者から、東医師が主治医であると聞き松田自身はそれなら主治医が二人いるのだと思つたことなどが明らかになり、被上告人らにとつて当然東が主治医であつて、酒井が主治医でないと判断し得たはずである。しかもこの程度の事実確認のための事実調査をするのはたやすいことであるから、これを調査しないで上告人酒井を主治医と認めたとしたらそれは被上告人らの重大な過失である。ましてや被上告人榎本、同高木は医師であり、主治医の職務を熟知しているのであるから、入院中の一年間に二〜三回廊下で出合うだけの主治医があるか否かは極めて容易に判断し得たはずである。

殊に被上告人らは本件告発を行う以前に「十全会を告発する会」を結成し上告人医療法人を論難するため、京都府議会を動かすほか朝日新聞や週刊朝日などの出版、宣伝機構をも利用する力量と能力を有していたのであるから、長期間入院していた松田記美代と接触していた同人の家族に面接して実情を質すなど些少の調査努力をしたならば、同人の主治医が東医師であつて上告人酒井でないことは直ちに分つたはずである。

そこでこのような極めて容易な注意、事情の調査さえしないでなした事実の誤認に対し、「誤信するにつき相当な理由がある」という法理を適用できないことは明らかである。それ故原判決が、被上告人らが上告人酒井を松田(水口)の主治医であると誤認・誤信したのには誤信するだけの「信ずるにつき相当の理由がある」と判断し、延いては、被上告人らが上告人酒井を本件告発事実によつて告発したこと、また新聞記者へ告発事実を公表告知するにあたり同上告人を対象者とし、そのため新聞記事によつて告発事実が報道せられて同上告人の名誉を毀損したことに違法性がないと判示しておるのは、すべて法令の解釈・適用を誤つたものである。

かくて原判決は、右の如く法令の解釈・適用を誤つた結果、上告人ら主張の不法行為については被上告人らに故意も過失もないものと判断して上告人酒井、同十全会(京都双岡病院の略称)らの請求を棄却したのであるから、右誤が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

よつて原判決は破棄せらるべきである。

(附言) 上告人らの上告理由が容れられて原判決が破棄され最高裁判所が自判される場合のため以下一、二附言する。

一、原判決は例えばベット拘束のことを取上げて詳述し、上告人医療法人ら及びその病院勤務医師らの医療行為が羊頭を掲げて狗肉を売つておるかの如く非難している。

しかし本件に現われたベット拘束といえども当該患者は長期の入院患者であつて、そのベット拘束の期間と入院期間(部分と全体)との関係を考察するときには、ベット拘束の必要性が奈辺にあつたかについての医師の医療上の判断をたやすく非難できるものではない。

また入院患者数(全体)と本件ベット拘束を受けた者の数(部分)との関係から観たときのベット拘束の意味が全く無視されている。

これを要するに原判決には木を見て森を観ていないところがある。

このような原判決における非科学的な思考態度が延いては事実誤認の禍因をなしていると思えるのである。

二、また先にも一言したとおり(本上告理由書六頁六行目七行目)、原判決は上告人(第一審原告)池田が松田記美代の言動を反抗的と受止めてベット拘束を昭和四四年九月三〇日から一〇月七日朝までは昼夜とも、一〇月七日夜から一五日までは夜間だけだが、継続したとの事実を認定しておるが、事実誤認も甚しいと言うべく、右のベット拘束を医療上必要と判断して実施した医師は上告人池田ではなく医師東伸子であつたことは証拠上明白である。

かくの如き原判決の事実認定のよつて来るところは、原判決が本件事案の判断において前示の如く、上告人医療法人ら及びその病院勤務の医師らが常々原判決の言うベット拘束の使用を安易に考えているときめてかかつている偏見か又は先入観に禍されて行為者たる医師の誰彼を弁護することをなおざりにしていたことに在ると思われる。

三、しかし原判決の判断の誤である右一、及び二で指摘するところは、このままでは上告人らが被上告人らの信用毀損行為或は名誉毀損行為に因つて被つた損害、したがつてその賠償額を評価する上で上告人らに不利益となる問題点であるからこれは是正されなければならないのである。

よつて附言する次第である。

四、なお上告人らが被つた損害の評価につき参考までに述べると上告人ら医療法人らが開設し経営する原判決判示の「三病院」について、埼玉県冨士見病院の事件を一つの契機として、政府機関が問題視し新聞紙がその記事を掲げておるが右「三病院」においては既に一〇年余前の出来事となつた本件以外に医療上入院患者について問題とされた事実は何もないのである。

却つて、上告人医療法人らは現下の老人医療の問題について無策の厚生省などに先んじて先年から重大なる関心をもつており、いわゆる恍惚の老人、糞尿を垂れ流し、家族のみでは看護に疲れ果てるし、内科医師では治療も入院も行き届きようのない老人を受入れて看護に努めておることは社会的に高く評価せらるべきである(本件で証拠となつている京都医師会の報告文書を参照されたい)。

また新聞などは上告人医療法人の病院に入院の老人の死亡率が高いなどとの非難めいた記事を掲げているが、これなどは全く事実を正解しないものである。

また本件控訴審の終結後第一審被告が提出しておる文書で明らかなとおり、日本社会党などが無用の口出しをして来ておる事実があるが、上告人医療法人としては本件での法律的争いが帰結を見ないうちはこれを相手にする考えがなく、したがつて無言で過している次第である。

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